「クズである」ということは、最強の免罪符である。

人間が何に対してネガティブな感情を抱くかと言うとまぁ色々あると思うが、不協和を感じたときが一番多いのではないだろうか。
一般的な倫理と照らし合わせて納得のいかない常識的不協和、自らの思想と相容れない認知的不協和、嫌悪感を催す感情的不協和。こういった不協和は隔靴掻痒の感と、時には不快感なども含んだネガ感情を引き起こし、底なし沼のように気持ちは堕ちていく。

なぜ不協和がこのような結果をもたらすのかと言えば「対象への評価」と「対象の価値」にギャップが生じるからである。このギャップとは「他人に対する期待」からの落差であり、この落差の度合いが大きければ大きいほど、裏切られたという気持ちも大きくなる。
この落差は埋める方法は2つしかなく「他人の期待を裏切らないような理想的な振る舞いをする」か「そもそも他人に期待されない」かのどちらかだ。

それが本人の意識的・無意識的であるかに関わらず、本来の自分ではない「演技」を多少なりと含んでいると、理想的な振る舞いをし続けるというのは土台無理な話で、それが例えどれだけ緩やかな下降線だったとしても、あくまで破綻までの時間稼ぎにしかなりえない。
クズであるということ、そしてそれを名乗るということは「オレに期待をするな」という周囲への宣言であり、不協和を回避し、自らを守るための免罪符となる。

であるとするのならば、他人に期待するという行為は自らにとってコストパフォーマンスの悪い行為であるし、相手からしても不要な精神的負担を強いられるだけなので、幸せの総量を徒に減らすだけで良い事なんてない。
また、そういった他人に期待をしてしまいがちな人間は暴力性が高かったり、思想・発言が攻撃的である傾向が高いように思う。そもそも他人へ期待をしなければ「まぁこんなものか」と溜飲は勝手に下がるし、思い通りにいかないといったもどかしさなんてものは持ちようもない。

「クズである」ということは、そういった「他人へ期待する気持ち」や「理想的な振る舞い」で発生する無駄なエネルギーを事前に抑えることが可能で、非常に費用対効果の高い状態だと言える。
こういった考えは非情な合理主義だとか誹られることもあると思うが、大いに結構。何故なら、クズであるからそのような発言に対して今更どうもこうも思わない。

そうした非難に晒されることに苦痛を感じる人は、クズであることのメリットは少ないかもしれない。クズであるためには、クズであることに徹し、徹底的に無関心でなければならない。

あなたは、クズである覚悟がありますか?

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