嫌々、望まないコミュニティへ属する人間はドMなのか?

大半の人間は「それが普通だから」というフィクションの下でコミュニティに属している。

そのコミュニティに対して自らへのプラス要素、詰まるところ自分へのメリットがあるならばそれは歓迎すべきことであるし、大いに胸を張れることだ。
しかしながら現代人の99%の人間は「普通」という虚構を疑うこともなく、まるでそれを全うすることが責務であるかのような人生を生きている。

例えば。

20年前の世の中ではより勉強し、より良い大学へと進学し、より良い企業へと就職することが成功パターンという時代があった。
これは確かな過去であり、社会とは基本的に企業を介する閉鎖的市場であった故に引き起こる必然的学歴社会の歴史であり、疑いようのない真実である。

しかしインターネットの普及によって学歴など無用の長物と化した。

残念ながら僕がこの真実に気付けたのは大学2年へと進学した頃であったので、それまではありもしない幻想に取り憑かれて、高校へと進学して名の知れた大学を出てより良い企業へと就職することを目標としていたのは否めない。

今思うと馬鹿みたいな話であるし、中学生の頃の自分にアドバイスできるとしたら「未だに大日本帝国時代の教育を続ける高校(及び大学)に進学するなんて無駄なことだ」と、現代という時代について勉強をした上で考えると辿り着く至極当たり前の結論を突きつけてやりたい。

少し本旨とズレてしまったが、思考を放棄して望まないコミュニティへと所属することに疑問を感じたので筆を取らせていただいた所存である。
(インターネットメディアにおいてこの比喩は不適切か?)

そもそもとして、人間とは本質的に利己的存在である。

利己的な主義、つまり利己主義とは「他人を蔑ろにして自らの利益を率先して優先する」と、言葉で書くといかにも冷たい感じがしてしまうが、これは当たり前のことです。
他人のために行動する根本的原理には「周りによく見られたい」「優等生でありたい」「相手から好かれたい」などという願望があるのは間違いないし、そういった打算のない人間など断じていない。

アガペーなんていう自己犠牲の上で成り立つ愛など神学概念の上でのみあるべきものであるし、現実世界でそんなものを信じるのは人間の本質を理解していない馬鹿の意見でしかない。

しかし、そういった我慢や自己犠牲は美徳だという幻想を刷り込まれた人々は「支配されること」や「上司(学校においては先輩や教師)に認められること」を至上の喜びとし、その為に邁進するのである。
その結果として自尊心や社会的地位、世間体なんてものを重視し、自らの快・不快を度外視したありもしない価値へと漬け込まれる。

メリーバッドエンドのように自らの幸福観に酔いしれるでもなく、世間からの目線だけを気にする生き方なんて窮屈なだけでメリットなど何もない。
そういう感性を全面否定するわけではないが、正直理解できるとは思わない。

なので僕としては積極的に合わないコミュニティを見捨てる勇気を持つべきだと思うし、見捨てないことを美徳だとする価値観は早急に唾棄すべき観念だと主張したい。

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