何かにかこつけて、何かしらがチラつく今日この頃を過ごしております。皆様は如何様にお過ごしでしょうか。僕は元気です。語尾に(笑)を纏ってヘラヘラするのはカッコ悪いでしょうし、確固たる何かがないと安定感がないという言説は”マジ”であると認めざるを得ないな、というのが最近の気付きかもしれません。さて、このテーマも一貫性もない駄文を急に連ねたくなったのは多分、とてつもなく下らない理由だと思います。例えば、最近サーバー契約の更新を契機にふと、このブログの存在を思い出したとか。そんな俗っぽい理由でしかないでしょう。
光陰矢の如しって言葉、字面の雰囲気がカッコ良くて中学生の頃に好きな熟語の一つだったんですけど、時が流れるのってマジで早いなって最近よく思いまして。中学生の頃なんてつい最近のように感じる、ってのは流石に大袈裟すぎますが、それでも3年前なんてつい半年前くらいのように勘違いしてしまいそうな時はあったりします。なんて、寄る年波に自虐をするのもまた俗っぽくて一興。
蓋然性合理主義ってフレーズはとある特定の文脈でしか聞くことはないですが、この単語を見るたびに思うところがありまして。蓋然性と確率って日本語だと微妙にニュアンスが異なるのに、英語にするとどちらもprobabilityって表されるのすごく面白くないですか?単純に対となる厳密な英単語が存在しないからだとは思いますが、日本人の数字だとかに対するprobabilityみたいなものを感じて、国風と呼べるべきものが垣間見えるのが良いですね。
グローバリゼーションなんて言葉が台頭してきて国とは何やみたいな議論は唾棄すべきほど吐き捨てるほど論われてきた訳ですが、宇宙船地球号という概念は中々嫌いではないなと最近は思うようになりました。というのも何もナショナリズム的精神がなくなったということではなく、その所謂「ナショナリズム」の本来意味するところが狭義といいますか、より広義な意味でのナショナリズムというのを考えるほど、地球という単位で考えるのって悪くないななんて気持ちになります。
SDGsは環境を以て胸壁となし得る利権である、みたいなかつてのISO14001を親の仇としていた奴らが天下ったような意見を見るたびに、悲しい気持ちになります。「おい、お前達。オレらは同じ「宇宙船地球号」の乗組員だぜ?」「大丈夫!みんな仲良く、絆を大切にすれば乗り越えられないものなんて、ないんだから!!」
俗っぽいな(笑)